著者は、コーポレート・ガバナンスを定義して、「企業経営を常時監視しつつ、必要に応じて経営体制の刷新を行い、それによって不良企業の発生を防止していくためのメカニズムである。」とし、また、「こうした防衛的な意味での監視を超え、企業としてのパフォーマンス向上を実現していくために経営陣を選び、動機付けていくための仕組みである。」としている。
そして、アメリカの改革例を取り上げ、コーポレート・ガバナンスのポイントを、①マネジメント(経営)とガバナンス(統治)を分離すること。②取締役会のチェック機能を強化するために、過半数は社外取締役で占めること、③取締役会におけるCEO(最高経営責任者)への権力集中を回避すること、の3点を挙げ、1980年代から1990年代初頭に、アメリカではこのコーポレート・ガバナンスの改善とともに、自由化、競争原理尊重の徹底や金融システムの強化が図られたために、その活力を取り戻したとしている。
一方、日本経済については、同時期に、「ジャパン アズ ナンバーワン」などの言葉に浮かれ、日本的経営方式を改善しなかったために、グローバル経済の進展についていけずに、バブル崩壊後に「失われた10年」と呼ばれる長期低迷に陥ることになるとしている。
その日本的経営の特徴とは、①株式持合、メインバンク制、企業グループ内の相互依存関係であり、②終身雇用、年功序列、企業別組合を柱とする雇用慣行③官僚統制、官民協調体制等の競争排除的市場慣行④ルーズな企業会計原則と限られた企業情報公開をあげている。
この本は、経済に疎い私にとって、アメリカにおけるコーポレート・ガバナンスの実態を知る上で大いに参考になったのだが、議論が日本のコーポレート・ガバナンスに移ると、途端にうさんくさく感じた。なんと言うか、お決まりの図式というのか、アメリカ方式の無批判的導入というのか、どうも日本の経済学者は、何か日本経済に不都合な事態が生ずると、その原因をすべてシステムのせいにして、即、アメリカ式システムへの転換を言うのだが、その運営主体である人間の存在を等閑視する傾向がある。
この著者も、コーポレート・ガバナンスの改善は、アメリカでは機関投資家とか証券取引委員会とかマスコミとかがその主導的な役割を果たしており、日本ではそうした機関が役割を果たしていないと嘆いているが、本末転倒もはなはだしいように思う。
いまだに間接金融中心の日本では企業経営を監視する投資家そのものが育っていないのだから、アメリカ的コーポレート・ガバナンスが足りないのは当たり前で、必然性がないものを無理矢理必要だと言うことが愚かしいと気付かないのだろうか。
もっと議論すべきは、日本経済の低迷をもたらしたもの、1990年代における「失われた10年」の原因を作り出したものは、システム云々というよりも、当時の、そして今の経済人の主体性の無さであったことに言及すべきだと思う。戦後の第二世代の経営陣が、先達たちの日本復興への挑戦心や公的精神を失い、成長の上にあぐらをかき、時代を読み取る能力も改革への決断力もなく、ただただ問題を先送りしてきたことが低迷という状況を作り出してきたのではなかったか。
コーポレート・ガバナンスという概念を使った日米の経営比較は、意味のあることだと思うが、日本的経営のすべてが悪いといった議論はいただけない。協調性に富んだ日本人の特性のあった経営システムというのはあるはずで、トヨタなんかは、まさにそれで成功しているのだから。