著者は、大量生産によって画一化され、西欧化された現代の菓子に対して、忘れ去られようとしている「ほっこりとした雰囲気をかもしだす和菓子の魅力」を見つめなおそうということでこの本を書いたという。
私は、著者ほど和菓子への特別の思い入れはないが、豊かな日本の四季や美しい風景、様々な年中行事と融けあって、品格のある形、色、味をした和菓子が、長い歴史の中で京都を中心に営々と創りあげられてきたという話は、読んでいてとても楽しかったし、和菓子の中に表現された日本人の心性とか文化といったものが、とても愛おしく感じられた。
内容は、読んでいただくのが一番良いと思うので、いちいち紹介しないが、自分が初めて気付かされた点だけ書きとめておく。
菓子のルーツは、田島間守(たじまもり)が常世国から持ち帰った非時番 菓(ときじくのかくのこのみ)=橘(たちばな、現在の柑子みかん)であり、菓子は木の実から始まって、次に飴や餅が加わるという変遷を辿るということ。
また、最初は、神饌や仏供であった菓子が次第に貴族や武士、庶民の普段味わうものとして変化し、その過程の中で、社寺参詣にちなんで門前茶屋、街道筋の茶店で菓子が広がり、かつ年中行事や四季折々の風物と結びついて発展していったということ。
たとえば、五節句(季節の変わり目を祝う行事)の例をとれば、次のとおりであり、現在これらの行事にちなんだ様々な菓子が出回っている。
正月7日(人日(じんじつ)の節句)では、中国の邪気を祓う行事が日本でも定着して、七草粥を作って1年の邪気を祓うこととしている。
また、3月3日(上巳(じょうし)の節句)では、当初は月初めの巳(み)の日に川で禊ぎ祓いをする習慣があり、母子草(後に蓬)の草餅を食べて邪気を祓ったというが、その後、雛祭と重なって、菱餅や「ひちぎり」に変化していく。
5月5日(端午の節句)では、粽(ちまき)や柏餅を食べるが、もともとは中国の習慣であり、日本では田植え月ということで、豊作を祈念して物忌し、家の軒に菖蒲をさし、菖蒲湯に入り、菖蒲枕で寝て、肘に続命縷をかけて邪気を祓ったという。武家の時代にはいって、男児の祭りとなり、尚武の気質を祝う日となった。
7月7日(七夕の節句)は、牽牛織女伝説と婦女子の裁縫の上達を祈る行事と重なって普及したが、七夕の供物として瓜果を飾るが、糸にまつわる索餅や素麺がたべられてきた。
9月9日(重陽の節句)は、九は数の陽の極みであり、それが重なるという意味で重陽の節句となったというが、その背景ははっきりしないという。中国では9月9日に茱萸を腰につけ、蓬餅を食べ、菊華酒を飲み、不老不死を願ったことに始まるようだが、日本では、庶民の間で、菊酒を飲み、蒸栗を食べてお祝いしたというが、現在ではこの行事が廃れてしまっている。
菓子というより五節句の解説みたいになってしまったが、それほど日本人というのは季節の変わり目を祝い、それを楽しむことに心を砕いてきたのだということを示したかったのである。