ペドロ&カプリシャスの歌なのだが、たまたま、NHKの「BS日本のうた」でチャン・スーが歌っているのを聴いて、「おいおい違うだろ」って思い、これを書いている。チャン・スーは、この歌の意味がほとんど解らずに、妙に情緒たっぷりというか色っぽくというか歌ってしまっているのだ。
「5番街のマリーへ」が発表された昭和48年、多くの若者達は、戦後経済成長のひとつのピークとなった時代を迎え、その豊かさへの戸惑いと大衆の中の孤独といったものを味わっていたように思う。彼らは、子供の頃に味わった貧しさとそれ故の愛情を記憶に色濃く残しながらも、それとは無縁の、愛情も定見もなく広がっていく大衆社会の様相に対して、精神的に肯定と否定を繰り返し、それとは違う何かを求めて、それぞれが当て所のない旅立ちをしていったのである。
この歌は、そんな若者達の心の中にしまいこまれた過去の記憶なのだと思う。貧しかったけれど、やさしい人々が住み、細やかな愛情が行き交っていたコミュニティへの郷愁がマリーという少女に象徴されている。しかしながら、なつかしいコミュニティは既に存在していないことも事実であり、そこを阿久悠は、マリーには会わずに、そっとしておいてほしいという表現に変え、美しい記憶として定着させた。
ペドロ&カプリシャスには、この歌以外にも「ジョニーへの伝言」というのがあるが、「5番街のマリーへ」と対になっており、こちらは、大衆社会の虚しさの中で、それぞれが旅立ちを迎える心境を歌っている。ジョニーという都会の若者に恋したけれど、どうしてもかみ合わなかったのだろう。2時間待っていたけれど、割と元気よく出て行ったと伝えてほしいという表現の中に大衆社会の人間関係の不確かさや曖昧さがうまく表現されていると思う。そして、振り向けば寂しげな街である大衆社会に背を向けて旅立つのだが、そこには孤独者としての私しかいないのである。
この2曲、ペドロ&カプリシャスの高橋万梨子が、そのハスキーな声で淡々と、時に悲しげに歌っているのが、とても良いのであって、チャン・スーもそうした点をよく勉強してもらいたいものだ。