著者は、「報道被害」を定義して、「テレビ、新聞、雑誌などの報道によって伝えられた人々が、その名誉を毀損されたり、プライバシーを侵害される人権侵害のことで、生活破壊、近隣や友人からの孤立をもたらす」ことと表現している。
報道被害の具体例として、松本サリン事件における河野さんの例(犯人扱いされた例)や桶川ストーカー事件の例(被害家族への集中豪雨型取材の例)、福岡一家4人殺害事件の例(親族を犯人扱いした例)などをあげ、その人格を無視した取材方法と事実を確認せずに流した誤った報道内容を批判するともに、それがもたらした報道被害の重大さとその救済が十分でないことを指摘している。
そして、報道被害が起こる原因として、①メディア間の「他社よりも早く」という過酷な競争や②取材される側の弱い立場を無視し圧倒的な力で取材するメディアの問題、③メディアが警察の情報源をチェックもせずに報道してしまう問題、④メディア経営者等の利益至上主義の優先を挙げている。
また、これらの原因を踏まえ、解決のための4つの提言を行っている。①は、「報道評議会」設置や市民団体、弁護士等による被害者救済のためのシステム構築であり、②は警察情報の一層の情報公開、③は商業主義に陥っているメディア経営陣や編集幹部にメスを入れること、④はメディア内部(記者等)への人権思想の浸透を挙げている。
「我が意を得たり」と言いたいところだが、読んでみて、正直、報道被害の捕らえ方が甘く、とても解決のための処方箋になっていないというのが感想である。
ひとつは、マスメディアの持つ力を過小評価しつつ、いまだに政治権力から個人の自由を守るための役割を果たしているという幻想を著者が持っていることだ。現在のマスメディアは、ある意味、政治権力以上の力をもち、様々な勢力と結託して大衆支配の道具と化している点について何の意識も持っておらず、メディア規制に対しては否定的な立場に立っていることからも、そのことが解る。
「表現の自由」をお題目にメディア規制反対を唱えているのだろうが、それならば、メディア側の自主的な規制を、単なる報道における倫理綱領に留めるのではなく、取材方法なども含めたきめ細かなものにするよう提言すべきであろうし、もし、それが守れなかった場合の責任の取り方も明示すべき旨に言及すべきだと思う。私は、メディア犯罪の結果責任を問うという意味で、刑法レベルにとどまらず、よりきめ細かに処罰できるよう法制化すべきであると考えている。
著者の提言が、メディア経営陣の利益至上主義からの脱却については単に奮起を促すのみであること、記者たちの無節操さに対しても単なる意識改革の訴えだけに終わっている点にも不満がある。結局のところ、著者は、メディアの横暴への歯止めを示すどころか、それを容認してしまうような結論しか出していないように思う。
まー、この本が報道被害の存在を明示している点や個々の被害者の救済についてのノウハウを示している点は評価してあげなければならないが、現在のメディア社会の持つ問題の深刻さはこの本の外にあると言ってよいと思う。