正月休みのうちに、全4冊を読み終えようとしたのだが、なかなか進まず、やっと2冊目までを読み終える。4,500首を超える和歌を読むというのは、相当な耐久力がいるものだと思う。
今日は、(二)の中から巻第十の秋の相聞歌2首を紹介する。現代語訳は中西進さんのものをそのまま使わせていただく。
(2274) 展転(こいまろ)び 恋ひは死ぬとも いちしろく
色には出でじ 朝貌(あさがほ)の花
「身もだえして恋に苦しみ、死ぬようなことがあろうとも、はっきり態度に出して人には知られまい。朝顔の花のようには。」
(2284) ゆくりなく 今も見が欲(ほ)し 秋萩(あきはぎ)の
しなひにあらむ 妹(いも)が姿を
「突然に、今見たいと思う。秋萩のたわむようにしなやかにいるだろう妻の姿を。」
相聞とは恋の歌、物にことよせて恋の様子をうたったものが多いのだが、その中でも少し直接的な感情を吐露したものを拾った。現代でもわかり易いものだと思うが、和歌としてはうまいとは言えないかもしれない。ただ、類型的な歌が多い中では、個性を発揮していると思う。
それはそれとして、これらの歌を読んでいて感じることは、万葉の世界というのが、まさにface to faceの世界であって、そうした世界ではいかに細やかに、かつ、大胆に恋が語られていたかということである。恋ということでなくても、人間の感情が極めて繊細で豊かであったかに驚かされるのである。現代のすさんだ感情からすると、ある種のうらやましさを覚えるほどである。
それに、己の感情を自然の物にシンクロさせて表現し、かつ、それを歌として、共通した精神世界として楽しんでいることに驚くのである。
万葉集を読み続けている理由もここにある。